楽譜という紙の上で、音楽は絶え間なく鳴り響いている。私達が眠っている間にも、音楽はそこに存在している。しかし、本来音楽は見えないものである。また、音は鳴り、消えゆくものである。それが、目に見える物質としてずっと存在し続けていることに、違和感を覚える。音楽は、どのように視覚化されていったのだろうか。
今、人々に普及している五線譜は、音の高さと長さを的確に表すことのできる便利なものである。五線譜のおかげで、過去の作品を今に蘇らせることができる。過去の人々が奏で、耳で聴いた音楽に近いものを、今、私達も聞くことが出来る。これはとても素晴らしいことだと思う。しかし、私たちが当たり前に使う五線譜も、実は先代の人々が色んな試行錯誤を重ねて、やっと完成できたものである。
音楽を形にしようとして、まず生み出されたものは文字譜であった。人のコミュニケーションのツールであった言葉を使って、音楽を表そうとするのは、ごく自然な流れのように思う。文字譜は古代ギリシア時代の楽譜で、音の高さを表す太古のアルファベットと、音の長短を表す記号で成り立っている。今の五線譜のように、楽譜そのものが音楽を描いているというよりは、暗号を解読するように、一つ一つの音を読まなければならない。今の便利さから見ると、とても不便なもののように思うが、それでもやはり、二千年前の音楽が形となって残っていることに驚く。次に生み出されたものは、音程譜である。これは開始音から、次の音までの音程、その音から、また次の音までの音程を表している。それぞれが、絶対的な音の高さを表しているわけではないので、一つ読み違えたら、後のものも全て誤読してしまうという欠点があるために、あまり使われなかったようだ。その次に、生み出されたのは、ネウマ譜である。物理的な音の上下の動きの形が描かれていることから、文字譜や音程譜とは違って、一見して音楽の推移が分かる。また、ネウマ譜には、譜線があるものと、ないものがある。譜線がないものは、ただ音の推移が分かるだけで、具体的な音が分からないが、譜線がつけられたことによって、絶対的な音の高さが示されるようになった。最初に引かれた一本の譜線が、二本、三本、いつしか五本に増え、音部記号も考案されて、徐々に今の五線譜に近づいていった。しかし、音の高さを表すことは解決されていったものの、音の長さに関しては、それから一層試行錯誤がなされた。モドゥス記譜法、定量記譜法を経て今の記譜法に近づいていった。また、描かれる媒体に関しても、インクの染み込みにくかった羊皮紙から、インクの染み込みやすい紙に移行したことで、白抜き音符を書くことが可能になり、四分音符のような黒塗り音符と、二分音符のような白抜き音符の使いわけが可能になったようだ。
大雑把ではあるが、このようなプロセスを経て、現在の五線譜は完成された。人々は長い年月をかけて、音楽を目に見える媒体に移しこもうとした。その結果、今の楽譜がある。一見、人々は音楽を視覚化することに成功したように見える。だが、果たして本当に人は音楽を目に見えるものに出来たのだろうか。聴く音楽は、見る音楽になれたのだろうか。
私達は、楽譜を見て過去の作品を演奏出来る。楽譜には、作曲家の記した音とリズムが記されている。バッハやモーツアルトが、頭に思い浮かべ、鳴り響かせたメロディを、時を超えて私達も聴くことが出来る。それによって、彼らを身近に感じることさえ出来る。彼らと楽譜を通して語り合うことが出来た、そんな気分になれる。音楽に正解はない。だからこそ作曲家の意思をくみとって、楽譜通り演奏することこそが、所謂音楽の「正しい弾き方」だと思う。だが、楽譜通り演奏したとしても、一つの楽譜から生まれる演奏は多様である。同じ音、リズムで弾いても、演奏は人それぞれ変わってきてしまうものだ。同じ演奏などというものは、ありえないものだ。どこが違うのか、具体的に言うときりがないが、それぞれの音のタッチ、数値として示されていないのならば、曲のテンポ、他にはritardandoの付け方などが挙げられるだろう。また、一概にForteと言っても、それぞれのForteがある。私のForteが、誰かのMezzo Forteであることも十分に有り得ることである。このようなことを考えに含めて、楽譜を見た時、楽譜がとても軽薄なものに見える。このForteは、どれぐらいの音量で弾くべきなのだろう?Andanteといっても、この速さはもしかすると遅すぎるのかもしれない。そんなことを思うことがある。作曲家の頭の中で鳴り響いた音楽は、そこに完全には示されていないのだ。作曲家の音楽と楽譜は一致していない。ただ、骨組みしか描かれていないのだ。楽譜はメッセージ性が強いように見えて、案外演奏者を突き放している冷たいものであるように思う。
人は音楽を視覚化しようとした。つまり、聴く音楽と見る音楽をイコールで結ぼうとしたということだ。これを楽譜に置き換えた場合、音のある音楽と音を持たない楽譜をイコールで結ぼうとしたことになる。だが、今はまだ楽譜と音楽はイコールになっていない。楽譜は音楽に追いつこうとした。五線譜の完成によってそれは成し遂げられているように思われるが、まだ楽譜は音楽に追いつけていない。鳴り響いても、すぐに消えてしまう音。それを追う楽譜。その追いかけっこの儚さが、とても虚しい。きっとこれからも楽譜が音楽に追いつくことはないように思う。追いつこうとしても、音は消えるからだ。
でも、私は楽譜が音楽に追いつけなくてもいいと思う。なぜなら、楽譜と音楽の間こそが芸術だと思うからである。そこに自由があって、人々の個性が表れるのである。もし楽譜と音楽がイコールになると、一つの楽譜から、一つの演奏しか生まれなくなる。それでは音楽が芸術の枠から抜け出てしまう気がする。